2012.11.5
三代目奮闘記
第70回『浅岡氏の時計工房』
浅岡氏の時計工房 2012_11_05
都内のマンションの1階に彼の工房はあった。そこは彼のこだわりが凝縮された、機械マニアの筆者から見れば夢のような世界が広がっていた。彼はそこで一人で「トゥールビヨン」という超複雑な機構を持った機械式腕時計を作る。設計やデザイン、部品製作、組み立てまで一人で行っているのは日本ではただ一人だ。
浅岡肇氏。筆者と同じ茅ケ崎で育ち、東京芸術大学でインダストリアルデザインを学んだ。現在、彼の作った芸術品のような機械式時計が銀座和光で年間10本限定で販売されている。筆者の手の届く値段ではないが、その製品を手に取った瞬間にその価格が買い得に思えるほど、とてつもない価値が伝わってくる。
由紀精密の主力工作機械は「スイス型自動旋盤」と呼ばれる1870年代にスイスで開発された、時計の部品を作るための機械である。長い棒の材料をセットすると、端から順番に小さいパーツを自動的に作る。1本の棒材から数十―数百個の部品を作り出せる。材料を支える部分と切削する部分の位置関係が常に保たれるために材料のたわみの影響を受けにくく、精度の良い加工が可能である。
この工作機械が開発された当時はまだクオーツ式の時計が出現する前であった。しかし1960年代の終わりにクオーツ式の時計が開発されると、圧倒的な性能と量産しやすさで機械式時計が一掃されてしまう。
スイス型自動旋盤自体は機械式時計の需要が減ってからも、精密な部品を作るために必須の機械として現在も広く使われている。 浅岡氏の工房には最新鋭の工作機械は見当たらない。その代わり、100年以上前から変わっていないという芸術品のような機械が目に留まる。道具一つひとつにも強いこだわりを感じる。買ったままのを使っているものは、ほとんど見当たらない。NC付きの工作機械まで自作してしまうほどである。
由紀精密も工作機械の性能だけに頼らない加工技術ということをうたい文句にしているが、浅岡氏の工房はまた異次元のレベルだ。まさに、ここにものづくりの原点を感じ、機械屋として純粋に、こういうことを目指したいと強く感じた。
さて、一時はクオーツに一掃されたかのように見えた機械式時計だが、一部のマニアや富裕層の中での人気は今なお続いている。近年、欧州のブランド戦略とともに急速に人気が高まり、現在ではスイスの時計メーカーが悲鳴を上げるほど、需要に供給が追いついていないという現実も興味深い。 単なる時計としての性能ではなく、この超精密な機械に込められた魅力を感じるユーザーが増えてきているということであろう。
(日刊工業新聞 11月05日付オピニオン面に掲載)